風呂上り。
濡れた髪を乱暴に拭きながら縁側を歩く。
結局、競争は僅差で負けに終わり、修練の済んだ後の道場を一人で後片付けする羽目になった。
雪と桜が手伝うことを申し出てくれたが罰ゲームなので断った。
修練はヒロスケとタスクが居ないこともあり、普段よりやや厳しいものだった。その上一人で後片付けをしなければならなかったので終了時間がいつもより遅い。
「ふぅ」
拭き終わったタオルを首にかけ天を仰ぐ。
空には満月が浮かんでいた。
「・・・・・・」
冷たい風が濡れた髪を撫でる。
秋の夜風はTシャツにハーフパンツの格好では肌寒かったが火照った体には気持ち良い。それでも長時間、このままでは風邪を引くだろう。
目を閉じ、耳を澄ませば鈴虫の音が響く。
再び目を開くと南天にある満月が変わらず目に映った。
「あれからもう七年か・・・・・・」
一人呟いた言葉は風に乗り消えていく。
だがその言葉に答える声があった。
「感慨深いか、マスター?」
声のした方へ目を向けると、庭で同じく月を見上げる使い魔の姿があった。
再び月を見上げて答える。
「・・・・・・ああ」
思い返せば随分と色々なことがあった。
その全てとは言わないまでも、半分以上は幸福なことばかりだった。
もちろん幸福なことばかりでは無かったし昼間のような雑事も多い。それでもあの世界に居るよりはマシだったと断言できる。
そして、この生活がずっと続けば良いと願っている。
だがその反面でいつか終わりが来ることを覚悟していた。
答えの見えない思から目を逸らすように、月への視線を外す。
「そいじゃロキ、お休み」
「ああ。マスターも良い夜を」
体の向きを変え、歩き出そうとしたところで何かを感じ勢いよく振返る。
感じたモノの正体は歪み。
球の外側から強引に引き裂いて穴を開けるようなそんな歪み。
「あ・・・・・・」
漏れた呟きと共に目を見開く。そこには―――
そこには真っ赤な丸い月が浮かんでいた。
「ついに来たか」
ロキが呟くのを耳に拳をきつく握りしめる。
「―――ああ」
空を見上げ続ける。
歪みから、まるでガスが漏れ出しているかのように、世界に風が吹き込まれる。
その風に遠く懐かしい気配と匂いを感じる。そう、元居た星の、精霊の気配と匂いだ。
その懐かしさに胸が躍る。そんな胸の高鳴りに戸惑う。
(嫌っていたはずなのにな)
自嘲し、歪みを強く睨む。
歪みから小さな光の粒が吐き出され、程なく閉じた。
ふと気付けば、月も元の色に戻っている。あれが一体どれくらいの時間の出来事だったのか。
一瞬のようにも感じたし、とても長い時間のような気もした。だが月の位置にほとんど変わりはない。どうやらほんの少しの時間の出来事だったようだ。
ロキが口を開く。
「複数人だな」
真剣な声でのやり取り。
「ああ、班編成か、多く見積もっても精々2個分隊程度の人数だろう」
「勝てると思うか? マスター」
「わからん。流石に英雄や勇者が出張って来てはないと思う。けど連中だって馬鹿じゃない。厄介なのを送り込んで来ただろうさ。それに今の俺の状態じゃ・・・・・・」
そう言って手の平を見つめる。
今の実力は果たして全盛期の何分の一だろうか?
「シュウちゃん?」
突然、縁側の端から声が掛かる。
「・・・・・・桜か」
ロキとのやり取りを聞かれていただろうかと思いながら声を返す。
「そんな格好で・・・・・・どうしたんですか? 風邪引きますよ?」
悪戯っぽい声で、身を案じる声を掛けながら近づいてくる。
「ああ、ちょっと―――月が綺麗だったから」
そう言うと桜も月を見上げる。
「うわぁ、ホントに綺麗ですね」
上手く誤魔化せたかなと胸を下ろす。変なところで鋭いので用心に越したことは無い。
月を見上げる横顔をそっと盗み見る。
空に浮かぶ月を真っ直ぐに見つめる黒い瞳。その月に照らされた横顔は白い肌をより際立たせ、儚げで幻想的な美しさを放っていた。
風呂上りの乾ききっていない髪はしっとりと水に濡れ普段より一層黒く輝いて見えた。また寝間着の上に薄く羽織ったカーディガン姿から仄かに石鹸とシャンプーの匂いが薫る。
(綺麗だなぁ・・・・・・)
考えるまでも無く浮かんだ思考に、苦笑が漏れそうになる。
義母さんとはまた違った、けれど年頃の娘とも違う美しさだ。
こういう姿を改めて見ると、盛った男子が昼間のように自分のことを目の敵にするのも迷惑だが頷ける。
(まぁ、たまにはこういう役得があってもいいか)
昼間のような雑事と引き換えに、と言われたらどちらを選ぶか迷うところだが、巻き込まれているのなら素直に受け取っておこうと損得勘定で納得する。
「私の顔、何か付いてます?」
怪訝そうに問うてくる瞳に自然と目が合う。
思いの他長い時間見つめていたらしい。
思ったことが意図せず口から漏れた。
「うん、見惚れてた」
その言葉に桜は顔を赤くする。
恥ずかしさを紛らわせるため小さく怒鳴り睨む。
「そ、そんなこと言って騙されませんからね!!」
桜は赤い顔を隠すためかしゃがみ込み、縁側からロキの頭撫で始めた。
桜の言動にヤレヤレと息をする。
(褒めても、貶しても怒るんだから思春期って難しいよなぁ)
自分も一応年齢的には思春期であることを棚に上げ、軽口を胸の中で叩く。
(マスターがクサイ台詞を言うからだ)
縁側に前足をついて桜に撫でられながらロキが念話を送ってくる。
(うるせぇ)
言葉と共に睨もうと視線を下に向けた時、唐突に
飢えを感じた。
(・・・・・・え?)
肌があわ立ち、鼓動が早くなる。
(・・・・・・なんで?)
急にそんなことを思ったのか理由を探す。
探そうとして目線が一点を注視して動かせないことに気付く。
己の目が凝視していたもの。
それは、横に座る女性の
(つっ!?)
意識したことで更に強い感情が呼び起こる。
■■■■■■イ。
ノイズの混じった良く聞き取れない声。
鼓動が大きく響く。
(ッ!?)
冷や汗が背筋を伝い、震えが体を走る。
今の声に自分は一体何を連想した?
人の体を流れる真っ赤な―――
鼓動が強く響く。
己の思考の異常さに
今、自分が地面に対し垂直に立っているのかも分からないほど地面が揺れる。
今の思考は性欲からではない。空腹から来たものですらない。
もっと危機的な飢えを感じた。
もっと根源的な飢餓。
もっと、ずっと獣じみた―――
「シュウちゃん?」
呼びかけられ現実に意識が戻る。
桜に心配そうな目で見つめられていた。
いつの間にか柱に手を付き、屈み込んでいる自分に気付く。
「ああ―――」
辛うじてそれだけ呟く。
まだ意識と現実の歯車は狂ったまま、鼓動は大きく、そして強く響く。
「大丈夫ですか?」
心配そうに手を延ばしてくる桜と向き合う格好になる。
(・・・・・・まずい)
霞が掛かったようにぼんやりとしか思考できない。
それなのに視覚だけははっきりと現実を捉えている。
伸びてくる手は、いつも訓練に励んでいるはずなのに驚くほど白く細い。
手から肘、肩の順で視線は動き、胸で止まる。
女性特有の膨らみに意志とは関係なく目が奪われる。
■ヲ■■■■■レ。
■ラワ■■■■ヨ。
桜の腕が頬に触れそうになる瞬間、なけなしの理性が最大の警鐘を鳴らす。
今、触れられると抑えが効かなくなる。
(ッぅあァ!!)
「触るなっ!!」
伸ばされていた手を振り払おうとして腕に痛みを感じた。
正気に帰って見れば桜の手を振り払う直前でロキに噛み付かれていた。
しかもけっこう本気で噛み付いているのか血が流れ出している。
顎に力を入れたまま上目遣いでロキが尋ねる。
(正気に戻ったか? マスター)
「あ・・・・・・」
やっと意識と現実の歯車がかみ合い、息を下ろす。
息を下ろしたのを見てロキが口を離し傷を舐め始める。
体が弛緩し、体が新鮮な空気を求めて荒い呼吸を繰り返す。
背中には何キロも走った後のような汗を掻いていて、空いた手の甲で額を拭うとべっとり濡れた。
「シュウ・・・・・・ちゃん?」
手を延ばしたままの姿で固まっていた桜が恐る恐る声を掛ける。
「―――ああ、ごめん」
疲れた声で生返事を返してから桜の存在を再確認する。
今度は思考が暴走することは無かった。
(今のは何だったんだ?)
深い疑問感じると同時に、正気に戻れたことに安堵する。
「傷の手当を・・・・・・」
再び手を伸ばしてくる桜の手を避け、やんわり断る。
「大丈夫。一人で出来るから」
「でも・・・・・・」
なおも心配そうに傷を見る桜に拒絶を示す。
「ごめん・・・・・・今は、一人にして」
桜の瞳が揺れたのを見た。
「―――はい」
俯いて返事をすると立ち上がる。
「風邪には気をつけてくださいね?」
痛ましく微笑み部屋の方へ歩いて行った。
桜の姿が見えなくなるとロキが見上げてくる。
「いいのか? 声をかけなくて? それに自然治癒では治りが遅いぞ?」
どんだけ強く噛み付いてんだよ? と小さく笑う。
「今は近づかないほうがいい」
桜の消えたほうを見つめる。
ロキは否定の答えを帰さなかった。
緩く握った左手の甲に視線を移す。
「あれも、救世主―――か」
薄く笑う。
「今は深く考えぬことだ。深く意識するとまた連れて行かれるぞ?」
「ああ」
力なく答える。
「今日はもう休め。スザクに言って今夜中にレポートを作らせる。明日、策を練ろう」
「スマン、頼む」
そう言ってもう一度月を見上げる。
夜が明けるまでの時間は長そうだった。