一人の男が居た。
どこにでも居そうな四十路手前のくらいの凡夫だ。
今はその面影を残していないが、これでも若い頃は武術を修め―――腕前はそれほどでもなかったが―――心身ともに鍛錬を積んでいた。
そして今、その男は恐怖に震えていた。
ただ怖い。これから自分はどうなってしまうのか。
だが引き返すという考えだけは浮かばなかった。
それだけの時間と手間を費やした。またここで止めてしまったときに浴びるだろう仲間からの視線は今と同じか、それ以上に恐ろしい。
すでに賽は投げられてしまったのだ。
引き返すことは出来ない。
手の震えを停めようと意識してもそれは失敗に終わる。
その手には先端に針のついたシリンダーが握られていた。
黒い墨汁のような液体の詰まったソレはとても正常な薬には見えない。
手の中にある注射器を見て男は固い唾を呑む。
何度も迷った。迷ったが決行すると決めたのだ。だが怖い。
迷い、恐れる心に不意に自分を呼ぶ幻聴が聞こえた。
(―――お父さん)
それは七年前に亡くした娘の声だった。
そう七年前、妖物よって殺され失った娘の。今はもう居ない。だから幻聴だとすぐ気付く。
「―――」
震えが止まる。
そう。そうだ。亡くした娘の弔いの為にも。
これ以上、娘と同じ被害者を出さない様、凄惨で悲惨な事件にしなくてはならない。
死傷者は多ければ多いほどいい。
そうすれば今の体制がいかに杜撰で身勝手なものであるか知らしめることができる。
もしかしたら自分と同じ考えを持つ者が後に続いてくれるかもしれない。
その為の試金石となり、また礎となろう。
意を決し、針の先端を腕に突き刺す。血管の位置など気にしない。そして黒い液体を躰に注入する。
全てを注入する前に注射器が地面に落ちた。
「あ。ああ、が。あぁぁ、おおお。があぁぁぁオオオ―――」
その声はヒトとしての断末魔か。それとも獣としての産声か。
◇ ◆ ◇ ◆
太い腕から繰り出される掌。その先には鋭利な爪。
喰らえば一撃で致命的なダメージを被る。それを剣で受け流す。
「!!」
獣はその手が傷付くことも厭わず諸刃の剣を掴み、投げ飛ばす。
天井に激突する前に体を捻り、天井を足場に跳躍する。その先は投げ飛ばした獣。
「―――!!」
一閃。
右手を斬り落とすが獣は意に介さず、左手で貫手を放つ。
それを間一髪で避けて、距離を空ける。
斬り落とされた手は腐臭と共に熔けるように消え、しかし本体は新しい右手をすでに生やしていた。
「アンタは一体!?」
問う声に答える声は無い。二足歩行と言え相手は獣。当然ではあるが
「なぜヒトを辞めた!?」
咆哮を上げ獣が飛び掛かってくる。
「くッ」
再び剣でその重い突進を受け止める。
この妖物が元々、人間の男であることを情報片から知った。
それがどうしたと、理性は自分に問う。
ヒトを自ら辞めたヒトに、ヒトたる資格は無い。
その希望通り、獣として処断するしかないだろうと。
ああ、その通りだ。真っ当で順当な正論だ。反論の余地も無い。
(けどっ!!)
迷う。
正論に正論を重ねて、感情を殺さねばならなくなった時。
その答えは正しいかもしれない。否、正しくなくてはならない。けれど正しいはずの答えに伴う鈍痛は何なのか。
歯噛みする。
己の青さに、弱さに。
どうしようもなく。
獣の爪が腕を掠る。
防御力場を突き破り放たれる攻撃に負傷が蓄積されていく。
相対する妖物は獣のバネと
対するこちらは力場の根源たる意志の統御に失敗している。
意志とは理性と感情の制御。それを統べることで十全の力を発揮できる。
戦場に迷いなどという感情を持ち込む時点で勝敗の半分は決している。
未熟者と自身を罵ってみても状況は一向に改善しない。
そこに脈絡の無い自嘲を刻む。
独りで良かったと。
隣に失うモノが無い戦場は気楽だ。
身一つで終われる。全ての責任は己の命で贖えばいいのだから。
心の裏側で、ココから出せと自分ではない自分が言う。
解放してくれればすぐに片をつけてやろうと、傲慢にせせら笑う。
「誰がテメェなんぞに頼むか」
内に向けて放つ敵意。
厄介な感情だなと冷静に思う。
慣れ親しんだ情念は。怒り、憎しみ、嘆き、負の情動。
ヒトだったこの男も、同じ念を抱えていた。
どこでその針が振り切れてしまったのか。
何がそこまで男を追い落したのか。
肝心の理由が不明だ。知ったところでその念を消してやることなど出来はしないのに。
「―――」
ならば今は。生き残ることに集中しよう。
同じ想いを抱えていたとして、それでも一緒に地獄に落ちてやるほどお人好しでは無い。
生き延びる為の算段を練り始めた所で
「!?」
乱入者に気付いた。
元々伏兵を警戒して
「なっ・・・・・・」
その姿を目視して絶句する。
それはある意味で伏兵よりも厄介な存在だった。
そこに居たのは店内で迷子になっていた幼子。その子がなぜかここに居る!?
店内の混乱でまた逸れてしまったのか。
(一日に二回とか・・・・・・)
鈍臭いにも程があるとか、ふざけんなよとか、他にも。雑言は妖物が幼子に向かって跳躍したことで停止を余儀なくされた。
出遅れた形で走る。肉体への負荷を無視し
(間に合えっ!!)
幼子は妖物に気付き身を竦ませる。蛇に睨まれた蛙のような状態だ。
幸か不幸か。身動ぎをしなかった為、妖物より一瞬早くその身に手がギリギリで届く。
掻っ攫う様にその身を抱え、停まることを考慮していなかった為、派手に転がる。
加圧の負荷に顔を顰めるが、妖物はすでに次の行動に移っていた。重心を低くした突撃姿勢。
舌打ち。
幼子を脇に抱え、片手で剣を構える。
両手で剣を扱っている時でさえその重さに呻いたのに、片手でしかも不自然な体勢では防ぎ切れないのは明らかだ。
故に
「風よ、散れ!!」
刀身として圧縮されていた空気が解放される。
刀身のあった場を中心に風が荒ぶ。それは一瞬の暴風となり敵の勢いを殺すと共に、己の体を後ろへと運ぶ。
僅かな差で直撃を避けた。
それでも回避には至らず、また一つ傷が増える。
痛みを無視し、
「大地よ、剣たれ」
大地より精製された鉄が、質量を持った刀身を瞬息の内に構築を果たす。
力場を瞬時に練り上げ
「絶至・逆破」
力場による斬撃を天井に向かって放つ。
大きな亀裂が入り、一瞬で崩落が始まる。自分たちと妖物の間を分断するようにコンクリート塊が堆積する。
建物の構造上、余り多用したくない。そしてこの程度の障害物では時間稼ぎとしては不十分だ。それでも
「がきんちょ、走れるか?」
扉の前で片膝を付いて尋ねる。
呆けていた幼子は遅れて大きく頷く。
「よし」
鉄扉を開ける。
「ここを真っ直ぐ走れ。何があっても振り向くな」
運が良ければ生き残れるだろう。紫藤さんの方でも、応援が到着し掃討戦が始まっているのを力場検索で感知している。そう分の悪い賭けではないはずだ。
幼子の背を押し先に扉を潜らせる。
「お兄ちゃんは?」
振り返り尋ねる顔は心細そうだ。そして次に目を瞠った。
その視線はこちらの脇腹に固定されている。
苦笑。
「正義のヒーローみたいに格好良くはいかないなぁ」
大したことは無いと言外に伝えてみる。
幼子を掻っ攫う時に妖物の爪に引っ掛けられた時に付いた傷だ。
傷としては浅く内臓は無事だが、縦線が長いため必要以上に傷を深く見せる。
そういった傷を見慣れないヒトには出血が多く重傷に見えるだろう。
「急げ、時間が無い」
急かす言葉に、迷うような挙動を取る。それは扉を潜ろうとしないこちらの身を案じるようであり
(面倒だなぁ)
だから子供は嫌いだ。
言うこと聞かないし、すぐ泣くし、おまけに
(昔の自分を思い出すしね・・・・・・)
浮かんだ過去の光景はすぐに消え、しかし痒痛を残す。
本当に救えない人間だと下す自己評価は多分正しい。
だがそれはこの子には関係の無い事だ。だから
「行け。そして急いで助けを呼んできてくれ」
「―――うん!!」
今にも泣きそうな顔で幼子は頷く。
よしと、そう言って頭を撫ぜてから送り出す。
走り出せば迷いは消えたのか振り返ることなく駆けて行く。
その背を見送り、扉を閉め、息を吐く。
「参ったなぁ」
少なくともこれであの子が逃げ切るだけの時間を稼ぐまでは死ねなくなった。
状況が不利な方がやる気が出るのはヒトとしてどうか。逆境に強いといえば聞こえは良いが
「そんなバイタリティは持ち合わせて無いですしねぇ」
タスクくらいになると暑苦しいことを
ゆらりと土煙の向こうで影が動く。
(ああ、そういえば・・・・・・)
幼子を助けることに疑問を挟まなかったなとふと気付く。
例え子どもであっても赤の他人のことなんか知るかと。そういうスタンスをとる自分としては珍しい。やはり自己同一性に一貫性が無く情緒不安定だ。
(まぁ、いいか)
悪魔だって時に気まぐれくらいは起こすだろう。
少なくとも自分が善人でない事を知っていればいい。
あとは死んだときに美談として語られて、養親の株があがれば万歳か。
「まぁ、そんな御涙頂戴話は大嫌いだし」
呟いた言葉にやっぱり憎しみって大切だなとつくづく思う。
これが一番、生きる糧として昇華し易い。ヒトとしてそれはどうかとも同時に思う。
しかしそれを寂しいと思う感情はとっくの昔に擦り切れてしまっていた。
「―――」
心を閉ざす。感情をオミットし、戦闘用に思考を切り替える。
十全には程遠くともやっと少しはマシな動きが出来るだろう。
「最近、日和ってたからな」
自嘲しながら剣を振るう。その先は飛び掛かってきていた巨躯にぶち当たる。
怯んだ瞬間を見逃さず、間髪を入れずに踏み込む。
撥ね飛ばし、斬り落とし、拳打と蹴撃を見舞う。
力場で刀身を強化し、加圧にて勢いは増加の一途を辿る。
だが妖物も攻撃を受けているばかりではない。
爪と牙。拳と脚。獣ともヒトともつかぬ攻撃。そして再生力に任せた無謀な攻撃は正しく人外。
口腔に力場を集め、咆撃を放つ。
避ければ壁面に着弾し、建物自体の崩壊を招きかねない。
その理由から回避は選択不能。そして防御では防ぎきれるか不安が残る。故に
「絶破光断!!」
斬撃にて相殺。威の余波が空気を震わす。
そこに安堵する暇も無く自ら敵の懐へ飛び込み剣を薙ぐ。
動くほどに血が滲む。脇腹が痛い。
敵を打ち倒すことのみに没頭し、痛みを無視する。その分多くの血が流れ、粘る様な汗を掻く。
回復魔法を使う暇も無ければ魔力も足りない。攻撃魔法の行使なぞ何を言わんや。
攻め手にも守り手にも欠ける今の状況。
動きが鈍っていくのが分かる。限界が近い。
振り下ろされた剛腕の一撃を防御しきれず、吹っ飛ばされる。
壁面に背中からぶち当たり、肺から空気が漏れる。
「ッぅ・・・・・・」
手放さなかった剣を杖にして立ち上がる。
なんでこんな苦労を背負い込まねばならんのか。
己の不遇を嘆き、神を呪った上で、実は自業自得な気がしないでもない。
妖物が悠然とした足取りで近付いてくる。
どうしてやろうかとふらつく頭で思考する。
すでに勝ちを拾うのは諦めていた。だからと言って一方的に弄られることに我慢できるほどマゾくもないし諦めも良くない。
欲を言うなら痛まない様にさっくり
顎門を開き、飛び掛かってくるのが分かっていながら動けない。
剣を構えその腕を防ぐ。距離は至近となり生臭い息が顔に掛かかる。
開かれた顎門からは涎が垂れ、その奥には鋭い牙が並んでいた。
(喰らう気か!?)
死の恐怖よりも先に、食い千切られることに嫌悪感が立つ。
押し返してみようと足掻くがその巨躯は怯まず、逆に一層の力を込めてくる。
背後は壁で逃げられない。
精一杯の抵抗の意思として赤眼を睨みつける。
憎しみという情動に色があるなら、果たしてそれは赤か黒か。
爛々と輝く血色の瞳。
牙が迫る。目を逸らすことはしない。なぜなら
「黒河君!!」
名を呼ばれたのと妖物の絶叫はほぼ同時。
妖物の側頭部に刃が貫通していた。痛みに暴れ回る爪が肩口に新たな傷を作る。
「―――!!」
無様に漏れそうになる呻き声を噛み砕く。
転がるようにその場から退き、距離を稼ぐ。扉の方に目を遣ると紫藤さんを先頭に、対妖物戦の装束を纏った人達が見えた。
「間に合ってくれたみたいで何よりだ」
皮肉にも似た安堵の呟きを最後に、意識は闇に沈んだ。