ああ、またかと。久しぶりではあるが親しみは無く、むしろ陰鬱な気分で思う。
水の中を漂うような感覚。
光の届かない深海にも似た夢中。
一人の男の、声にならぬ声を聞く。
それは怨嗟の声に満ちていた。
神を呪い、世界を呪い、社会を呪い、ヒトを呪い、妖物を憎み、自分を殺した。
大切な家族を失った悲しみが、怒りと憎しみに塗り潰されるまで数年を要した。
男にとってのその時間は永遠にも似た長い苦しみに満ちた時間だった。
インクの染みが広がるように男の念が自分に入ってくるようで気持ちが悪い。
諦めようとして諦めきれない。気が付くと涙が頬を流れている。
そんな自分を恥じ叱咤し、それでも悲しみは停まらない。
妻はそんな情けない自分を見限って去って行った。
仕方がないと思う気持ちと、見捨てられたという思いが感情を加速させる。
壊れた蛇口のように止め処無く憎しみが流れ、溢れ、理性を蝕んでいく。
息苦しい。それは水の中だから苦しいのではなくてもっと別の理由から息苦しさを覚える。
いつの間にか水が黒く粘りつくコールタールのようなものに変質している。
もがく手が何かを掴むことは無い。それでも必死に手を伸ばす。上か下かもわからぬまま闇雲に。
助けは無い。いつものことだ。あとはどれだけ自分を自分として保っていられるか。
手放してしまえと、甘く囁く声が聞こえる。
意地を張って浮かぶ瀬があるのなら張ればいい。だが実際はどうだ?
「―――」
反論の言葉はすぐ浮かんだ。だがその反論は薄っぺらで、無言で小さく笑われるだけで正当性を見失う。
「・・・・・・」
もう駄目なのか。そう諦めかけた時、不意に光が差し込む。
眩しい陽の光に目を細め―――
◇ ◆ ◇ ◆
視界に映ったのは灰色をしたコンクリートの天井だった。
「・・・・・・ま、現実なんてこんなもんですよねー」
光を得たような錯覚は落胆の言葉へ変わり、そうでありながら自分を保っていたことに安堵する。
「気分は?」
眉を寄せた表情で手短に尋ねてくるのは紫藤さん。
視界の上側から覗きこまれるようにして見えるのは寝かされているからだと分かる。
「・・・・・・眠いです」
若干、怪しい呂律で答える。
「恐らく血が足りていないのでしょう。神術で傷は塞いでいますが、失った血までは回復しませんから」
夢の中の光と神術の光が一瞬重なり、眩しさに目を細める。
休むのが一番だと言われ、その言に逆らう様にして身を起こす。しかしその途中で貧血と繊手によって元の体勢に戻された。
「これ以上無理はしないで下さい」
「そうは言われましても・・・・・・」
せめてこの状態からは解放して欲しいと思う。
後頭部に当たる柔らかな感触と温もり。対して背中に当たる感触は冷たくて硬い。
近くを通り過ぎて行く男が咎めるような視線を送ってくる。
「・・・・・・」
いや、もう、ホントすいませんと、心中で詫びてみるが届きはしないだろう。
場違いな仄かに甘い香りが鼻孔をくすぐる。
居心地の悪さと後ろめたさから目を逸らすように尋ねる。
「あの妖物は?」
「浄化まで完了していて、今は現場検証中です」
予想通りの回答。
まぁ、そうでなくてはこんな所で暢気に寝かされていないだろう。
それよりも現場検証中なのにこんな所で邪魔をしているようで申し訳ない。
また一人、男が睨むような眼差しで通り過ぎていく。
「・・・・・・」
好きでこうしている訳ではないのです、不可抗力なんです、と言い訳をして一体どれくらいの男が納得してくれるだろうか。
そう言えば紫藤さんは客観的に見て美人だったのだと、忘れていれば良い事を選りにも選って今思い出す。
(もう、いいや)
投げ遣りな気分で思う。
気を遣うのが莫迦らしくなってきた。
体が休息を欲している。
だがその前に確かめておきたいことがある。
「紫藤さん」
「はい?」
「骸はどうなりました? 妖物の」
「? 浄化は完了しています。残っていませんが?」
そうかですかと、呟きにもならぬ呟きを零す。
紫藤さんの表情は一貫して怪訝そうな顔だ。つまり
(嘘を吐いているようには見えない)
いけしゃあしゃあと嘘を吐く人間は腐るほど居る。それでもこの女性はそういうことを得意とする人種ではないだろう。
ならば
(あの妖物は妖物として処理されたと考えていい)
自らヒトであること辞めたのだ。それは当然の帰結であり報い、因果応報だ。―――それを男が望んだかどうかは別にして。
もっとも亡骸が存在しない以上、ヒトであったと証明できる証拠も無い。
葬儀もなければ供養されることも無く、墓所すら与えられない。
そうまでして己の無念さを知らしめたかったのか。
「・・・・・・あっちの方に儀式の後があったんですが、あれは何か分かりますか?」
そう言って奥の方を指差す。
「それなんですが・・・・・・」
声を潜め、紫藤さんの唇が耳に近付く。
「私も初めて見ました。上役も恐らくは同じです。更に上へ指示を仰いだ後は、一切の詮索を禁じられています」
「―――」
「ですから、他言無用でお願いします」
「―――分かりました」
せいぜい深刻に聞こえる様に真面目な声で返す。
別に忠義も恩もへったくれもないので必要とあらばいくらでも口外する所存だ。
(声を潜めたのは警察関係者に配慮してか)
キナ臭いなと警戒心が反応するがそれよりも紫藤さんの顔が近い。
いくら怪我人相手とはいえこれは近い。この距離はもっと親密な人との距離だろう。
周りに居る人からの視線が痛い。
嫉妬と蔑みに慣れることはあっても、それを無視し続けるのは難しい。
「・・・・・・」
ああ、本当に眠い。考えなければいけないことは山ほどあるのに、思考が上手く纏まらない。
最後に、有耶無耶になる前に聞いておくべきだったことを思い出す。
「そういえば紫藤さん。ここに来る前に子ども保護しませんでした? 店内で迷子になってた」
問いにやっとその質問をしたかと、満足気な顔で答える。
「ええ、しましたよ。黒河君がここに居るのを教えてくれたので速やかに駆けつけることができました」
「そうですか。それは良かったですね」
「―――どうして感想が他人事なんです?」
「そういう感性の持ち主だからです」
視界が狭まっていく。
(情けは人の為ならず、ってね)
感想を最後に意識は闇に落ちた。