「落ち着いたかしら?」
思考が一段落したのを見計らったかのようなタイミングで美咲さんが優しい声で話かけてきた。
「あんまり溜め込んで、我慢するは良くないわ。適度に吐き出さないとね」
悪戯っぽくウィンクして笑う。
「―――すみません。
一瞬、美咲さんの言葉を違う意味で想像してしまい言葉に詰まる。一人、気まずい気持ちになって美咲さんの表情を窺うと、満足気な顔をしていた。それを単なる勘違いだと信じたい。
しかし期待は早くも裏切られる。
「あらあら、想像し―――」
「してません!!」
美咲さんが言い終わる前に強く断言する。その断言が、逆に墓穴を掘ったことに気付いたのは美咲さんがクスクスと上品に手を添えて笑い出したときだ。
(子供になんつー、質問してるんですかっ!?)
顔が赤くなるのを自覚しつつ、心の中で悪態ともつかぬツッコミを入れる。そしてふと同じような感覚をつい最近、感じたことを思い出す。
あの厭らしい顔―――とは言っても顔の造形だけはユキやサクラと同じだが―――を思い出す。そして色々知りたいことも山積みであったことも。
質問しようと口を開いて
「―――」
辞めた。
(そうか。縁は切っちゃったんだっけ)
もう何の繋がりもなく、今更聞いてもしかのないことだらけだ。
この感覚を敢えて言葉にするなら惜しい、だろうか?
そこまで思い至ってから苦笑が漏れそうになる。その思いを軽く首を振ることで打ち消し、もう一度頭を下げる。
「それでは最後までご迷惑をお掛けしました」
頭を上げて失礼しますと告げる。
そんなこちらを見て苦笑しながら美咲さんは口を開く。
「シュウちゃん、なにか忘れてない?」
フスマを開け様とした手が止まる。
(なんか忘れ物してたっけ?)
少し考えてから思い至る。
「ああ、着ていた服と持っていた武器ですか? それにこの服もお返ししないと・・・・・・」
美咲さんは呆れて呟く。
「違うわよ」
「?」
他に何か忘れ物? なんだろう? そして装備品よりも大事なものをついうっかり忘れていたことに気付く。
「ああ、すいません。犬ですね? 庭の方に居ますか?」
すっかり存在を忘れていた。ロキが聞いたら怒るだろうなと一人楽しく想像する。しかしその答えも違ったようで美咲さんの顔が曇る。
「本当に気付いてないの?」
「?」
(ええっと、他には?)
今度は深く考えてみるが思い浮かばない。もしかしたら別れる時、なにか特別なことをする風習でもあるのではないかと勘繰ってみる。
そんな様子に美咲さんは心底呆れた様子で溜息を吐く。
「どうしてシュウちゃんはそう物欲に塗れているの?」
「??」
余計に意味が分らなくなる。
(物以外の忘れ物?)
なんだろう?
深く考え出した自分に美咲さんはしょうが無そうにヒントを提示する。
「シュウちゃん、一夜さんから貰ったものがあるでしょう?」
そう言われて何か貰ったっけと記憶を探る。少し考えて
「・・・・・・名前?」
「そう。それでその時、一夜さんが他に何か言っていたでしょう?」
(何か?)
一言一句思い出すように記憶を辿る。
『ちなみに、この世界の風習では
『―――これからシュウ君は外からは
「あ」
美咲さんはやっとわかったかと言わんばかりの表情だ。
「そう。シュウちゃんはもう家族なの」
そう言って穏やかに微笑む。
「でも、それはアルバイトで・・・・・・」
「別にアルバイトだから家族に迎えたわけじゃないわ。もっとも命名を与えるためにはどうしてもシュウちゃんに実力が備わっていることが前提だったけど」
最後のほうは苦笑しながらだ。
「ですが、これ以上ご迷惑をお掛けするわけには・・・・・・」
「黙りなさい」
急に有無を言わせぬような厳しい声で美咲さんが口を開く。
ふぅと美咲さんは溜息を吐くと寂しそうな表情で喋り出す。
「私は、シュウ君が今までどんな風に生きてきたかを知らないわ。雪から辛うじて触りを聞いているに過ぎない。そしてその過程で、どんな風に今のシュウ君の考え方が生まれたかももちろん知らない。でもね? 迷惑を掛けるとか、掛けないとかそんなことどうでもいいじゃない? 人は一人ぼっちでは生きて行けないわ。そこでは、必ず他人に迷惑を掛けられるし、掛けるはずよ。大切なのはそこに多大な迷惑をかけないことだわ」
「ですが」
反論しようとした矢先に美咲さんは鋭い視線と静かだが緊迫感のある言葉を重ねる。
「黙りなさいと言ったはずよ?」
「・・・・・・」
大人しく口を噤む。
「他人にさえ迷惑を掛けるのに、一番近くで生きるであろう家族に迷惑をかけないわけないじゃない? でもそのことを含め、それが家族というものだと私は思っているわ」
まぁ思想の押し付けだけどね、と美咲さんは小さく付け足す。
しかしどうしても納得がいかなくて再び口を開く。
「ですが、やはり迷惑が過ぎます。今回のことも・・・・・・」
もう一度美咲さんは溜息を吐く。
「だから、それは私たちが動く前に収束に向かってたって言ったでしょ? それに郷に入れば郷に従えよ。男の子なんだから、郷に入ったんだから大人しく黙って従いなさい」
微妙に性差別的な発言をされた気がする。
美咲さんの言うことは的を射ているのかもしれない。けれど納得するわけにはいかない。
「それでも、です。どちらにしろ少し仕事をして生活が安定したら、辞退させていただくつもりでしたし」
「あら、どうして?」
不思議そうな表情で美咲さんは尋ねる。
「まぁ、複雑多岐に渡るややこしい事情があるんですよ」
明言を避けて曖昧に笑う。きちんと理由を説明したところで、それはあまりに抽象的過ぎる。そしてそれを上手く説明する自信が無い。
美咲さんは困ったように眉を寄せている。
「しかたないわね、あまりこういうのは好きじゃないんだけど」
そう前置きをしてから美咲さんは口を開く。
「話を少し戻すけどいい? あのね、シュウ君が申し出を受けてくれないと困ることになるの」
「困ること?」
怪訝そうな声で聞き返す。どうやらまた話が見えなくなりそうだ。
「ええ、最初に言ったようにシュウ君が森に入ったことは不問になったんだけど、不問になったのは何もシュウ君だけじゃないの」
「ユキやサクラも、と言うことですか?」
「もちろん家の娘達もだけど、大元の原因を作った子達もよ」
「大元の原因?」
再び怪訝そう声で尋ね返す。
美咲さんは軽く頷く。
「どうして雪が森に入ったか理由は聞いたかしら?」
美咲さんの問いに記憶の糸を手繰る。
「確か、―――サクラがクラスの男子から悪戯されて帽子を森に隠されて、それをユキが探しに森に入った、とサクラが言ってました」
もう一度、美咲さんは頷く。
「実際には森に隠したんじゃなくて、近くの民家の生垣に隠したそうなんだけどね」
苦笑してから話を続ける。
「それでも、危うく人一人の命が失われるところだった。だから親御さんからキツク叱って貰ったわ」
そう言って美咲さんは悲しそうに、けれど綺麗に微笑む。
本当に、下手をしたら自分の大切であろう存在が失われたかもしれない状況で、他人を許すことの出来るこの
でも、だからきっと、そんな人に大切に育てられた、あの子達は優しい子に育っているのだろうと。
「・・・・・・優しいんですね。僕だったら、例え相手が子供でもそんな風に許すなんてこと、できそうにないです」
美咲さんは静かに首を横にふる。
「私はそんな風に思ってもらえるほど出来た人間じゃないわ。少なくとも憤りは感じるし、悪戯した子達は出来れば雪や桜に二度と近づかないで欲しいと思うもの。でもそれは私のエゴに過ぎない。なにが二人にとって幸になるかはわからないから」
「そう言う所が優しいんですよ。大人の勝手な価値観を子供に押し付けない辺りが特に」
美咲さんは一瞬驚いた表情をしてすぐ
「ふふ、有難う。シュウちゃんも優しい子ね」
その言葉に対しても曖昧に笑う。肯定とも否定ともつかぬ中途半端な笑みだ。
ここで否定したところで更にそれを否定で返されるだけだと解っているから。そしてそんなことをされて自惚れたくはなかったから。
ただこれだけは言える。自分は絶対に優しい人間などではない、と。
そんな自分の様子をみて美咲さんは複雑そうな目をしたが、そのことには触れてこなかった。
「話を戻すわね。それでシュウ君が申し出を受け入れないと」
「ユキとサクラを含め、周りにも何らかの処罰が下る、と言うわけですか」
呆れた口調で美咲さんの言葉を継ぐ。
美咲さんは困った表情で頷く。
―――あまりこういうのは好きじゃないんだけど
さっきの美咲さんの台詞が蘇る。
さてどうしようか? 恐らく美咲さんのさっきの台詞に込められた想いに偽りはないだろうし、処罰が下るのも本当だろう。こんな所で嘘を吐くような人ではないと思う。ただこういう状況があまり好きではない。有り体に言って嫌いだ。人質を取って条件を呑ませようと言う魂胆が気に喰わない。そして基本的に自分にとって、人質は人質としての意味を成さない。殺したければ殺せばいい。そのかわり代償は高くつくぞ、と。今までもそうしてきたし、これからもそうするだろう。ただ・・・・・・
(―――借りがなぁ)
ここで思い悩む。別に周りに処罰が下ろうが、幽閉されようが、島流しにあおうが特に気にしない。と言うかむしろ願ったりだ。どうせ道すがら会った態度の悪い割に弱かったガキどもだろう。ゴミはゴミ箱へ。分別はキチンとがモットーだ。序に言うなら初期教育は大切に。ただユキとサクラに関しては借りがある。命の恩人と言うのとは別に森の中の一件で。
そして表立って不利益を被る条件でもないのがまた悩む。もしここで確実に自分が不利益となるなら条件を呑む事は無いだろう。しかし、仕事を手伝うだけで衣食住が保証されるのはなんの伝も無い自分にとっては益と言える。
(もっとも何らかの裏があると見て間違い無いだろうけど)
それが何なのかは現状ではわからない。ただ上手く事が運び過ぎている点に関しては注意する必要があるだろう。
自分の精神的満足度と物質的満足度、何らかの裏。そしてさっき得た、惜しいという感情。全てを足して
「―――わかりました。そう言う事でしたらお言葉に甘えさせていただきます」
その言葉に美咲さんは満足そうに微笑んで頷く。
「よかったわ。これで拒否されたら泣き落としくらいしか方法が想い浮かばないところだったもの」
泣き落としするつもりだったんですかと心の中でツッコむ。
「それでは美咲さん、改めてよろしくお願いします」
頭を下げる。
しかし美咲さんは不満そうに口を尖らせる。
「もうシュウちゃんのいけず。家族なんだから『お母さん』って呼んでくれなきゃイヤよ」
「だったらまず、息子に対して『ちゃん』付けを辞めましょうよ」
つい口に出してしまったツッコミに美咲さんはショックを受けて泣き真似を始める。
「ヒ、ヒドイわ。私、息子が出来たら絶対『ちゃん』を付けて可愛がろうと思ってたのに・・・・・・それに『ちゃん』をつけると可愛い感じじゃない?」
泣き真似から一転して満面の笑顔で尋ねてくる。
「可愛くない息子が出来たと思ってキッパリ諦めてください。そもそも可愛さを求めるならユキやサクラに『ちゃん』を付ければいいじゃないですか?」
「あら? 雪や桜が可愛いだなんてシュウちゃんたら大胆なんだから」
手を頬に当てながら何故か嬉しそうに美咲さんは喜ぶ。
頭を抱えたくなる気持ちを抑え、疲れた声で尋ねる。
「―――誰がいつそんなこと言いましたか?」
そんなこちらの様子を見て美咲さんは楽しそうに笑う。
けれどその楽しそうな表情も長くは続かない。寂しげな瞳で語る。
「うん。シュウちゃんの言うとおり雪や桜にも『ちゃん』を付けて呼んであげれれば良かったんだけどね・・・・・・」
その言葉から暗に、でも出来なかった、と言う意味が込められているだろうことは想像に難くなかった。
(けど、なんで?)
何と無くだが美咲さんからは自由奔放と言ったイメージを受ける。それは多分、話し方や会話に由来しているのだろうけど。だから逆に疑問なのだ。娘の呼び方を、一々気にするような人ではないだろうに。
(何か理由があるんだろうな・・・・・・)
理由を問いたい気持ちが無いわけでは無い。けれどそれを知ってしまうことで相手と深く関わることになるのは“重い”だけだ。
(はは、臆病者め)
自虐的な乾いた笑い声が心の中を満たす。
相手の心の中には踏み込まない。だから自分の心の中にも踏み込ませない。
それはとても楽な関係で、けれど孤独だ。だがそれでいいとも思う。自分に必要なものは幸福とは程遠いものだから。
思考に耽っていた意識に穏やかな声が掛かる。
「理由は聞いてくれないの?」
顔をあげ相手の表情を窺う。美咲さんは困ったような、けれどどこか楽しそうな複雑な顔をしていた。
それに対して感情を込めず、口を開く。
「尋ねて欲しいんですか?」
逆に問いかけるが、返答を待たず口を開く。
「残念ですけど、理由を尋ねようとは思いません。尋ねたところで僕にはどうすることもできませんから」
肩を竦めて見せる。
「でも、誰かに話を聞いて欲しい時ってあるでしょ? 寂しい時とか悲しい時とか」
わかるでしょ? と美咲さんは付け足す。
「そういうのは一夜さんに言ってください。少なくとも僕の役目ではないでしょう?」
美咲さんは口を尖らせて文句を言う。
「だって一夜さんは理由を知ってて、だからきっとこう言うわ。『ごめん』って。別に私は謝って欲しいわけじゃないもの」
呆れた声で尋ねる。
「じゃあどうして欲しいんですか?」
それ対して美咲さんは少し首を傾げた後、
「んー、慰めて欲しいかな?」
美咲さん自身も良く分かっていないのか語尾が疑問系だ。
「
生まれてこの方、意識して誰かを慰めるという行為をした記憶がない。
美咲さんは特に落胆した様子もなく笑う。
「その年で女性を慰めるのに気の利いた言葉を持ってるなら、シュウちゃんはよっぽどのすけこましね」
女の子ではなく女性。
「誰がすけこましですか? 誰が?」
半目で美咲さんを睨むも、気にした様子はない。ただ茶目っ気を混じらせて和やかに笑う。
「じゃあ独り言をこれから言うからシュウちゃんは聞かないでね?」
なんとも返答に困る言葉を美咲さんは口にした。