EX3-23

 現在清算中の相方から離れ、店内に設置された長椅子に足を投げ出して座る。
 そのままズルズルと沈みこんで行く身を正し、己の不遇を悔やむ。
「・・・・・・疲れた」
 ああ、もう疲れましたとも。ええ、本当に。
 嬉し恥ずかし拷問タイムに肉体よりも先に精神が悲鳴を上げた。
 目の保養と割り切ってしまうには根が小心者過ぎて泣けてくる。あのカラフルな色彩にはもうお腹が一杯だ。

 薬も用量を誤れば毒になる。

 もうちょっと思考に桃色成分が多ければ、素直に喜べただろうか、どうだろうか。
 真面目なのか、硬派を気取りたいのか、それとも初心なだけか。
 自己同一性が迷走気味だなよなぁと青息吐息で思う。

 思考の沈降に歯止めをかける為に上を向く。
 物理的側面から精神に干渉することで無理矢理にでも気持ちを上向かせる。
 そうでもしないと殻に閉じこもってしまいそうだからだ。
 またそうすることで彩りある空間から少しでも意識を切り離し、心のゆとりを回復させるよう努める。
 本来であれば肉体的にどうと言う事は無いはずだが、今回に関して言えば精神的疲労が度を超えていた。
 好奇と奇異の視線に晒され続けるのは、有体に言って疲れる。
 それでもそれに耐える為の正当な理由があれば平静を保っていられるが、今回は諸々の条件が悪すぎた。

 儘ならない思いを、溜息を吐くことで逃がす。
 そもそもと、問題のすり替えだと自覚した上で思考を緩く回す。
 訳の分からないモノに憑かれ過ぎているから、疲れやすいのではないかと。
 意図せず自嘲が漏れた。
 左手の甲に宿る四つの異能。そして
「呪い、だな」
 憎まずに、そして生きろと願った、その体現。
 今際の願い。
 前四者に比べれば、その性は弱く限定的だ。
 そして本気で解こうと思えば、恐らく解ける。
 バックアップした記憶を別領域に保存、改竄し、その上で初期化(フォーマット)
 再度それを読み込ませる。
 それをしないのは初期化後の人格が予想できないからだ。弱く限定的ではあるが、それが自我の基底部になっているのは厄介だ。
 最悪、変な方向に転んだら快楽殺人者になる可能性も否定できない。
 そう思う程度には、碌で無しの自覚はある。
 そしてそれ以上に
(繋がりを消したくないから、だろうな・・・・・・)
 亡き人の想いと思い出を。それが楔と戒めであっても。
 相変わらず女々しいよなぁ、と。
 そしてそんな思考に区切りを付けられないのは弱さだよなぁ、とも。
 一息。

 目を閉じて思い出す。
 枷が外れたあの時を。
 黒蜜に酔うようなあの感覚。
 理性を溶かし、蝕み、自らを欲望のまま動かす。
 そういった類の何かが、緊急時のシステムとして意識の裏で動いている。そういう一面を間違いなく自分は飼っている。
 今はそれを忌避するだけの理性がある。
 誘い堕す声に耳を塞ぐことが出来る。
 だがそれは
「いつまで保つ?」
 嫌な想像だ。
 いつ爆発するか分からない時限爆弾のようなものだ。
 そして一番割を食うのは恐らく
「一番身近な人、だよな」
 答えは解り切っていて、だからこそ光を当てたくない。
 身勝手さに再び漏れた自重に
「って何を浸っているのだろうか」
 ナレーション風に言ってみて現実とのギャップに脱力する。
 少なくとも女性の下着売り場の近くで考える事ではない。
 華やかな色とりどりの布地に眩暈がする。

 いい加減、意識を現実に戻そうかと焦点を合わせたところで、きょろきょろと辺りを見回している幼子が目に映った。
 四、五歳くらいの男の子が一人、心許無げに辺りを見回している。
「・・・・・・」
 今にも泣き出しそうな顔に、周りの大人は(おろ)か店員も気付いていない。
「・・・・・・」
 いや、よく見れば気付いているヒトは居る。ただ一瞬で目を逸らし、意識から外す。
「・・・・・・」
 ヒトの醜悪さを見た時にも似た陰鬱な気分になる。
 困っている人が居て。手を差し伸べる勇気はないのに。
 困っている人から手を隠す理由だけを並べ立てる。
「―――」
 でもそれは結局、同じように動くことの無い自分への同族嫌悪でしかない。

 ああ、どうして世界はこんなにも―――。

 腰を上げてこの居た堪れない空間から逃げ出す気力すら奪われていくようだと、目を伏せた。



 ◇ ◆ ◇ ◆

 抱えるようにして持つ紙袋は、今し方会計を終えたばかりの物。
 待ち合わせの場所へ早足で急ぐ。
 間違いが無いように事前に待ち合わせ場所を確認し、逃げない様に確約させて。
 それでも、もう居ないのではないかという不安がある。
 もともと乗り気ではないようで。言葉は少なく、その表情には始終僅かな険があった。
 冷静になってみると薄い染みのような罪悪感が心に広がる。
 少なくとも楽しんでくれてはいないだろうなとそれだけは確信できる。
 無理をさせているな、とも。
 お嬢様から言付かった時も驚き戸惑いはしたが、それ以上に嬉しさがあった。
 年甲斐も無く舞い上がった気持ちに嘘は吐けない。
 不躾なことをしていると。そういう自覚はある。はしたないのではないかとそう思う気持ちも。
 それでも、この機会を逃すことのなんと物惜しい事か。
 その理由の答えに至る直前、待ちあわせの場所に着いて
「―――」
 言葉を失ってしまった。
 視界が捉えたベンチの上に、約束した待ち人は居ない。
 不安が的中したことに手足の先が急速に冷えていく。
 自分が場所を間違えたのではないか。そう思い視線を巡らすとその近くに待たせ人の後ろ姿を見つけた。
 安堵し温かみが戻ると、すぐに疑問が湧く。
(何を・・・・・・)
 しているのだろうか。
 純粋な好奇心で少し離れた場所から待たせ人たる少年を観察する。
 片膝をついた姿勢の少年。その正面には涙を流す五歳くらいの男の子が居た。
 泣き止まない幼子を相手に困ったように頭を掻く。周りに居る大人たちは何事かと遠巻きに二人を盗み見ている。
 その視線に気付いてないわけでもないだろうに。
 少年は溜息を吐き、幼子に何かを話しかける。
 泣き止まないままの幼子はそれでも話しかけに応じ―――目を丸くした。
 それは宙に舞うひとひらの蝶。
 周りから小さくどよめきが起こる。
 中空に鱗粉を撒くようにして飛ぶ幻想的な蝶を間近で見て、幼子は一瞬で泣くのを忘れ、興奮を露わにする。
 蝶に手を伸ばそうとする幼子を留め、少年は指先に蝶を休ませる。
 そしてその指先を幼子の前に差し出すと息を吹きかける。
 消えた。シャボン玉が弾ける様に。
 だがそこに金粉が雪のように舞う。
 その様子を二人静かに見つめる。
 茫然と目を瞬かせる幼子に少年は再度、話しかける。
 幼子の頷きと、返答と、否定と。
 それに返す少年の反応は苦笑だ。そして少し乱暴に幼子の頭を撫でる。
 乱暴に扱われたことに対して幼子は不服の表情を浮かべるが、少年はそれを見て逆に笑う。
 三度、話しかけようとした所へ女性の声が響いた。
 その声に真っ先に反応を示したのは幼子で。
 名を呼ぶ声と幼子の様子から、その女性が母親であろうと見当が付く。
 安堵の笑みで駆け出した幼子は母親の元へ。母親は眉を寄せた表情で幼子を懐に迎え入れる。
 その姿を視線だけで追う少年からすでに表情は消えていた。
 母親の元へ辿り着いた幼子を挟んで、母親は不審な目を少年に向ける。
 事の始終を知らず、無表情な―――何を考えているのか読めない―――顔で立つ少年に向ける眼差しとしては強ちその猜疑は間違いではない。
 ただその始終を知る者として母親の態度は釈然としない。
 収まりの悪い感情と共に誤解を解いた方が良いのだろうか。余計な世話か。
 判断を迷っている間に届いたのは幼子の声だった。
「お兄ちゃんありがとー!!」
 小さな体で。精一杯大きく手を振る幼子。
 少年は片手を上げることでそれに応えた。しかもこぼれるような笑み付きで、だ。
 とても穏やかな笑みに息を呑む。
 歳不相応な優しい笑みに数奇さを垣間見る。
 その時に思った。
 なぜ、そんな風に笑えるのだろうかと。
 幼子の声を聞いた上で、母親は訝しげな視線を変えようともしなかった。
 もし自分がその立場なら、母親の態度に憤り自然な笑みを浮かべたりは出来ないだろう。
 周りに居た見物人達が散っていく。
 少年は笑みを消し、それでも親子が見えなくなるまで背中を見送っていた。
 そして、ふと少年が何かに気付いたようにこちらへ体を向ける。
 ずっと様子を窺っていた事もあり、逸らす暇も無く視線が搗ち合う。
 照れるでも無く、怒るでも無く。無表情のまま片手を上げてからベンチに腰を下ろす。
 どう反応すべきか迷ったが、取り敢えず歩を進め同じようにベンチに座る。
 座ったのは良いが言葉が見つからない。
 見ていた事を謝るべきなのか、それとも子どもを助けたことを褒めるべきなのか。
 迷っている間に、沈黙が重なり、言葉を発し難くなっていく。
 前触れも無く、隣で小さな嘆息が聞こえた。
「―――ご意見、ご感想があればどーぞ」
 突然の言葉に相手を見る。
 少年は眠たげな視線を足元に固定していた。
 思わぬ助け舟に驚きつつも
「・・・・・・お母さんが見つかって―――良かったですね」
 見つかったのは良かった事だ。だが、母親の反応に反感を覚えていた自分を思い出し、無難な言葉選ぶ。
「そーですね」
 返ってくる言葉に気色は感じられない。
「黒河君のこともちゃんと褒めてますよ?」
「アリガトウゴザイマス」
 限りなく棒読みに近い返答。
「・・・・・・ごめんなさい。見てることしかできなくて」
「いつから見てたんですか?」
「・・・・・・多分、最初の方から」
 歯切れ悪く、言えば非難されるのでは無いかと身構える。『見ていたのならなぜ助けないのか』と。
 だが返って来た答えは拍子抜けするものだった。
「見てたんなら手伝ってくださいよ。男よりも女性の方が誤解され難いんですから」
 逆差別ですよねーと、淡く笑う横顔。
 そこに暖かい感情を得る。
 母親の猜疑の視線に気付いた上で、笑えるのなら。
 それはヒトとしてとても立派な事なのではないかと。
 そんな風に思い、だから小さな―――ほんの僅かな―――表情の変化を見逃した。
「優しいんですね、黒河君」
 口を衝いて出た言葉に、まず返って来たのは昏い笑みだった。



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