EX3-29

 静かな道場。開け放たれた換気窓からは春の風が流れてくる。
 暖かなはずの空気は、しかし今張り詰められていた。

 木刀を構えた相手を前に同じように正眼で木刀を構え、力場(フィールド)を練る。
「―――」
 呼吸を場の空気に合わせ、自身が制御可能な限界まで密度を高めていく。
 すでにその密度は制御を失えば拡散するだけには留まらず、自身を削る刃になる域に達していた。それでも
「―――」
 目の前で同じように木刀を構える相手は待っている。
 こちらが全力で挑む、その瞬間を。
 その様は静かな湖面のようだと、対峙しながら思う。
 その湖面に波紋を立てることは出来るのか。
 冷静に思考を重ねながら、しかし体に疼く熱を抑えきれない。
 そして収束させた力場が限界を迎える直前、
「―――!!」
 動く。
 解放された力場は暴れ回る場所を求める様に、脚に莫大な力を与えた。
 加速する。
 弾かれたように初速から最高速に達し、そして思考は高速化の一途を辿る。
 世界が遅々と進む。
 相手の初動を見切り、自身の儘ならない動作に焦りにも似た怒りを覚える。
 足りない。足りない。まだ足りない。
 速く。速く。もっと速く。
 この程度の踏込では一瞬であしらわれて終わりだ。
 そんな結果を得る為に、こうしている訳では無い。ゆえに更なる速度を得る為に力場に加圧(ブースト)を叩き込む。
「―――!!」
 遅々とした世界から、すでに音は省かれている。自身の上げる咆哮もヒリつく咽の感覚から得ているに過ぎない。
 意思伝達の処理速度を上げる為に、匂いが消え、音が消え、そして世界から色が失われる。
 純然たる闘争の意志だけを残し、余分なものを切り落とす。
 限界下での制御に神経をすり減らすことを忘れ、身に掛かる負荷も身体強化の力場で相殺することで無視する。

 そうして成るのは一つの意志だ。

 肉体の動作全てが意志に直結していて無駄が無い。
 自分の願った通りに、肉体がその動きを叶える。
 限界速度を上げるのではなく、思考を挟まないことによる動作速度の先鋭化と最適化。
 それは刹那よりも短い時間。だが高速近接戦闘に於いてその時間差は届かなかった一手が届く一手に変わる。
 こちらの速度に、対峙している者の表情が無から眉を立てたものに変わった。
 それに対する自分の感情は喜だ。
 嬉しい。小さく―――けれど確かに―――湖面に波紋が立った。

 池に小石を投げて遊ぶ子どものよう。

 意味の無い満足感。だがそれはこの瞬間だけ自信に変わる。
 己への信頼は己の意思を強化する。
 揺るがず、弛まない意志は全能を身体に付与し、
「―――!!」
 斬りつける勢いは全力だ。
 一切の手加減を必要としない。
 それ程に対峙する相手は強い。
 その強さの前に小細工は無意味。策を弄した所で絶対の強者には届かない。
 それ故の全力。
 放った左切上は躱され、逆にこちらの木刀を断ち割る勢いで振り下ろされる。
 歯を噛みながら右に避け、その勢いのまま背を回し逆胴。
 読まれている。
 力場によって強化された相手の木刀にこちらの木刀が阻まれ、動きに遅滞が生じる。
 その不利に一瞬で判断を下し、バックステップで距離を空ける。
 逆に相手は追撃の準備をし、来た。
 遅々とした時間で進む世界で、なお相手の動きは速い。
 自分が呼吸を要して行った練成を、相手はコンマゼロ以下で行う。
 動きは目で追えている。だが体が付いて来ない。こちらは意思伝達の速度を上げているにも関わらずさらにその上を行く。
 相手が狙うのはこちらの木刀の柄元。動く相手に対して狙い難い場所だ。
 そこを弾く動きで木刀が迫る。腕を振り上げることによって空振りさせ、片手打ちで反撃した時には、すでにその場から身を引いている。
 相手の狙いは分かる。それは戦う手段を弾き、取り落とさせることによって戦いを終わらせようとする魂胆だ。
 気遣われていると、そう思う。
 相手も本気を出してくれているのは分かっている。だがそれ以上に気遣いが勝っている。
 本気を出しながら、全力を出していない。
 悔しいと思う気持ちは的外れだろうか。
 全力で、心配なくてもいいと。
 そう叫びだしたい衝動は声帯からでなく、全身で表す。
「―――!!」
 踏み込み、加速し、斬り付ける。
 怒りと悔しさの境界が曖昧になり、それでいて畏敬の念を忘れられない。
 刺突。躱される。
 右薙。避けられる。
 斧脚。届かない。
 唐竹。往なされる。
 相手に攻撃の手を与えないよう、連続して木刀を振るい返す刃で隙を埋める。
 距離が開き、攻撃に転じようとする瞬間、拳弾を放ち初動を押さえ肉薄する。
 距離を取り、速度に乗られたら終わりだ。加速し運動エネルギーが加わった一撃は防ぎきれない。だがその一方で
「―――」
 肺が痛い。酸素が足りない。練成した力場も明らかに目減りしている。
 肉体の負荷がノイズを思考に混じらせ、動きが鈍っていくのが分かる。
「くっ・・・・・・」
 呼吸が聞こえる。景色に色が付き、世界は元の速度を取り戻しつつある。
「はっ・・・・・・」
 半呼吸分のズレ。そのズレが今まで阻止ししていた加速を許してしまった。
 見えぬ風となって烈が来る。
 視認出来た時、既に相手は攻の動作に入っている。
 回避が間に合わぬことを悟り、木刀に力場を集めることで防御を固め、衝撃に意識を備える。
 相手は腰を落とし捻りを加え、肩から滑り込むような形で一段低い位置から逆風を放ってきた。
 予測したどの攻撃とも違う動きに防御が遅れる。
 辛うじて間に合った防御は、しかし防ぎきれず、足裏から地面の感覚が無くなる。
 力場と速度の乗った重い一撃は軽々とこちらの身を宙へ跳ね上げた。
「ッ!?」
 力場が万全の状態であったなら、それを足場に滞空中でも跳ぶことは出来た。
 しかし今はそれを望むべくも無い。
 最高点に到達し、落ちるだけとなった身は
「!!」
 諦めない。
 中空で身を捻り、姿勢を正す。僅かな時間だが再度力場を練り加圧する。
 物理現象による位置エネルギーの加速を一刀に注ぎ込む。
 相手も既に迎撃の構えを取り、こちらを待ち受けている。
 追撃では無く迎撃に気遣いを感じる。だが今は、勝負の場を預けてくれたことに感謝の念を込める。
 思考をクリアにし、雑念を払う。相手の期待を上回る成果を見せる為に出来る、己の最高を。
 大上段からの一撃。
 振るった一刀に力みは無かった。
 無心で振るった全力の一刀は弧を描き、眼下の相手へと確かに届いた。



 ◇ ◆ ◇ ◆

 道場の冷たい床を背に荒い呼吸を繰り返す。
 相手へと確かに届いた一刀は、しかしその身には届かなかった。
 こちらの振るったタイミングに合わせ、正面から打ち返されて試合は終わった。
 もっと力があったらと、嘆けばいいのか、悔しがればいいのか。
(ああ、でも・・・・・・)
 心地良い疲労感を前に自問への興味が薄らぐ。
 最後の一刀を振るい残身を取る中で相手は確かに笑っていた。
 自身の出来前を見て破顔してくれたことが、なにより嬉しい。

 上から聞き慣れた声が降ってきた。
「大丈夫?」
 頷くことで意を示し、自力で起き上がる。
 相手の正面に立ち、礼。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
 一瞬遅れて、相手も礼を返してくれる。
「やー、でも少し見ない間に千夏も強くなったなぁ」
 しみじみと言われ頬が自然と緩んでしまう。
 兄と慕うこの人が家を出て早二ヶ月が過ぎた。
 二週間に一度の頻度で帰ってはくるし、家業の関係で顔を合わせない日の方が珍しい。それでも一緒に居る時間は当然減り、寂しいという思いが生まれた。
 けれどその思いをこのヒトに悟られてはいけない。
 それを知ればきっと心配してくれる。だがそれでは駄目だ。
 甘え、頼るだけの依存した関係。それを心のどこかで小さく望んでいるのは否定できない。
 でも今はそれ以上にこのヒトの決断を応援したいのだ。
 もう心配しなくても大丈夫だと、胸を張って言いたい。

 優しいヒトだと思う。
 その優しさは養親やお姉ちゃん達のとは異なった優しさで。

 見返りの無い情愛を惜しみなく注いでくれた。
 私の犯した罪を知った上で同情も憐れみも無く、優しさだけを教えてくれた。
 取り繕う必要も無く、気兼ねも無く、醜い感情を見せても失望することも無く。
 前を向いて光を望む事が大切なのだと。語りはしなかったが、少ない言葉で諭してくれた。
 でもそれが嘘だと言う事を私は知っていた。教えた当人さえも理解していた。薄っぺらで寒々しい言葉だと。
 けれど嘘を吐かれたという思いも一切なかった。それはよく似た傷痕を持つ者同士の暗黙の了解だった。
 むしろ理解してなお、少ない言葉で嘘を教えたその意図を酌むことに意味があるのではないかと―――

 思考に没頭していた意識が、自身に向けられる視線に気付き顔を上げる。
 視線の先には穏やかで優しい笑みがあった。泣きたくなるくらい穏やかな優しい笑みが。
 まるでこちらの思考を見透かしているかのようで。
 それに不快感を抱くことは無い。逆に優しく包み込みこまれるような感覚に安堵する。
 ああ、やっぱり私は甘えているんだなと失望と諦めと暖かさが同居した複雑な感情で思う。

 不意に手が伸ばされ、その指が頭の上に届けられた。
 汗で湿った髪の上から、柔らかな手つきで撫でられる。
 羞恥心で顔が赤くなるのを自覚しながら、その気持ちよさに身を任せる。
「大丈夫、千夏は頑張ってるよ」
 落ち着いた雰囲気の良く通る声が心地良く耳に残る。
 頷くことも否定することもせず、ただ次の言葉を待つ。
 だが何も言わず、無言の笑みと共に腕を引いた。
 指が離れていくのが惜しくて、目で訴えてみると視線を逸らされる。

「こんにちはー」
 遠く来客を告げる声が聞こえた。あの元気な声は(タスク)さんだろう。今日は広輔さんと共に修練の日だ。
 お兄さんを見れば疲れ顔。でも私はそれが体面的なものだと気付いている。
「行きましょう」
 暖かい気持ちに声は弾む。
「しょうがないなぁ」
 言いながらも歩き始めるお兄さんに向けて目を細める。
 いつかその優しさで、沢山幸せになれますように。



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